このページでは、これまでの礼拝説教を動画でご覧頂けます。
(早天礼拝は、日本基督教団「日毎の糧」に沿っています)
我が全ては贖い主の賛美になり 2024年9月29日 主日礼拝
サムエル上1:19-2:10
説教者:坂本兵部牧師
私に倣う者になりなさい 2024年9月2日 主日礼拝
フィリピ3:12-21
説教者:坂本兵部牧師
パウロだけでなく私たちも、十字架の恵みに捕らえられる時、キリストこそが全て、つまり他の全ての肉的な喜びが塵芥となるような「目標」となります。その「目標」がずれたまま「走る」と、結ぶべき実を結べません。しかし聖霊の助けによってその「目標」に視点を定めるなら、たとえ弱くても、上からの召しを与えて下さった方が備えた「報い」を、必ず受ける人生になるのです。その恵みを纏ったパウロの「私に倣う者となれ」という告白は、クリスチャンのスタンダードです。それは自分のように立派になれという意味ではなく、自分のように恵みをしっかり纏って歩め、という意味です。私たちもまた、同じメッセージを発しながら生き、死ぬように召されているのです。
どんな時もキリストの身体は 2024年8月18日 主日礼拝
フィリピ2:19-30
説教者:坂本兵部牧師
パウロはピリピ教会を案じてテモテを遣わしますが、その理由は「彼が様々な試練を通過した人物だから」でした。また、ピリピ教会からパウロの下に派遣されたエパフロデトも送り返しますが、その理由は「彼が死ぬほどの病気になったことをあなた方に知られて、心苦しく思っているから」でした。二人とも弱い者たちでしたが、彼らはどんな時もキリストの身体を通して、①主の近くにいるように、②遣わされた場所で主の栄光を証しするように、③悪霊の働きを制するパワーを発揮する者として成長するように、召され続けていたのです。そのような兄弟姉妹は、あなたが果たせない何かを主のために成しつつ苦闘しているので、弱くても尊敬しなさい、とパウロは命じます。
邪悪な時代の只中で星のように輝いて 2024年8月11日 主日礼拝
フィリピ2:13-18
説教者:坂本兵部牧師
ひとつの霊、ひとつの心で堅く立つ 2024年7月29日 主日礼拝
フィリピ1:21-30
説教者:坂本兵部牧師
神の国とは、三位一体の主の内に溢れる聖なる「交わり」に、私たちが連なる国です。罪が入り来る時に真っ先に壊れるのは、その「交わり」の喜びです。イエス様が人となられ十字架に架かられたのは、その「交わり」を回復させるためでした。「キリストを信じることと併せて、キリストのために苦しむことも、私たちには恵みとして与えられる」と、パウロは獄中から語っています。それは、パウロの苦しみが初代教会の「交わり」の喜びを破壊しておらず、それどころかそれを深めるために用いられていることを意味します。私たちが人生の中で味わう苦しみは、「交わり」の喜びを回復させる十字架の福音の恵みを、より深く受け取るように、という神様からの召しなのです。
生きても死んでも、この身を通して 2024年7月21日 主日礼拝
フィリピ1:12-21
説教者:坂本兵部牧師
「我が身に起こる嫌なこと」によって、人は落胆したり、過去の傷の痛みを呼び起こされたりしがちですが、パウロは違います。彼は老いた身で長期間投獄されているだけでなく、外界では彼を嫉妬する勢力が誹謗中傷を重ねているのですが、「『そのこと』によって、私は全く不幸になっていない。むしろ、我が人生の内にキリストがお始めになった御業は、『そのこと』によって益々力強く進んでいる」と彼は語ります。私たちが「そのこと」によって喜びを奪われがちなのは、【幸福】を目標にして人生を生きるからです。【幸福】にフォーカスするのをやめて、【生きても死んでも、この身を通して福音が輝くこと】を目標にしてブレない人こそが、世に勝つ神の子なのです。
どんな時も共に恵みに与る者として 2024年7月14日 主日礼拝
フィリピ1:1-11
説教者:坂本兵部牧師
フィリピの獄中でパウロが賛美を捧げて獄門が開いたあの出来事から十年以上が経って、彼は今ローマの獄中から、自分の計画を超える主の導きの中で生まれたその地の教会に向けて、愛を込めて書簡を書いています。想定外の苦難や障壁に遭う時、私たちは喜びを奪われがちですが、彼は状況に左右されない喜びに溢れています。それは、自分の人生の大事な局面で出会った兄弟姉妹が、過去から今まで常に「福音に与っているから」、そして今後も「どんな時も、自分と共に恵みに与る」こと、また彼らの内に「良き御業を始めた方が、それを責任持って完成させて下さること」を、知っているからだと彼は言います。それは私たちに向かう「キリスト・イエスの心」なのです。
邪悪な日によく抵抗し、しっかり立つために 2024年6月30日 主日礼拝
エフェソ6:10-17
説教者:坂本兵部牧師
霊的攻撃や試練が絶えないのは、信仰者として主に召されているからこそ、と言えます。もしもその痛みの中で、問題解決のために没入して祈っているなら、それは他宗教と変わりません。主イエスの弟子は、委ねられた霊的戦いの中で「神様の全身武装」を学ぶように導かれています。霊的に倒れてしまっている時とは、真理を逃している時であり、信仰による霊的武装を怠っている時です。自我が自分に語りかけるのを許すのでなく、救われた信仰者として、自我に対して主の福音を語りかけなければなりません。そしてキリストの身体の一員として、敵サタンが放つ火矢の全てを、責任をもって共に消し防ぐ時、私たちは「全てを成し遂げて、しっかり立つ」ことができるのです。
キリストと同じ心構えで 2024年6月23日 主日礼拝
エフェソ6:5-13
説教者:坂本兵部牧師
「主人(敬い従うべき者)に、上辺だけでなく心から、主に対するように従え」とは、私たちの本性を逆なでする御言葉です。それだけの内容があればそうするけれども、あのような上司、親、姑、夫、リーダー等がいるから私はこんな目に遭っているのだと、呟きがちです。しかし聖書は、その部分で勝利しなければ人生は祝福されないと、仮借なく宣言します(現にヨセフ、ダビデ、ルツ、サラなどは、その領域で勝利して実を結んだ人々です)。鍵は問題に遭う時の「心構え」(態度、思考)です。「肉の思い」に流れるなら、人生は不毛になり、サタンの覆う壺です。しかし「キリストと同じ心構えで武装」(第一ペテロ4:1)するなら、その問題はむしろ祝福になるのです。
人はいかにして、どこまで癒されるのか 2024年6月16日 父の日礼拝
エフェソ5:30-6:4
説教者:坂本兵部牧師
「父と母を敬え。そうすればあなたは地上で幸福になる」とは、聖書の黄金律です。しかし私たちの親の愛は程度の差こそあれ皆、質においても量においても不完全でしたので、私たちはその通りに生きられず、むしろ上の世代から受けた否定的な影響を、周囲や下の世代に伝えてしまっています。そんな自分の傷の深さや不毛さを、率直にお認めすることが、癒しの第一歩になります。更に、その痛みを何かのせいにすることをやめて、主がそんな自分を花嫁として下さったという奥義の前に進み出ること、そして主の身体=教会の交わりの中で、心にサタンが植えた非真理を吐き出し、代わりに主の真理を植え続けて頂くことで、私たちは次世代を祝福する存在と変えられるのです。