東京都文京区のプロテスタントのキリスト教会

メッセージ・アーカイブ

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このページでは、これまでの礼拝説教を動画でご覧頂けます。
(早天礼拝は、日本基督教団「日毎の糧」に沿っています)

人はいかにして、どこまで癒されるのか 2024年6月16日 父の日礼拝

エフェソ5:30-6:4
説教者:坂本兵部牧師
「父と母を敬え。そうすればあなたは地上で幸福になる」とは、聖書の黄金律です。しかし私たちの親の愛は程度の差こそあれ皆、質においても量においても不完全でしたので、私たちはその通りに生きられず、むしろ上の世代から受けた否定的な影響を、周囲や下の世代に伝えてしまっています。そんな自分の傷の深さや不毛さを、率直にお認めすることが、癒しの第一歩になります。更に、その痛みを何かのせいにすることをやめて、主がそんな自分を花嫁として下さったという奥義の前に進み出ること、そして主の身体=教会の交わりの中で、心にサタンが植えた非真理を吐き出し、代わりに主の真理を植え続けて頂くことで、私たちは次世代を祝福する存在と変えられるのです。
 

時(カイロス)を贖って生きる 2024年6月9日 主日礼拝

エペソ5:15-20
説教者:坂本兵部牧師
「今は悪い時代なのです」(16節)とは、恵みによって神の子とされた者たちすら、本来の喜びから押し流される時代だという意味です。確かに、日々を忙しく生きる私たちの人生の「時」は、罪の影響を受けて、取り返しのつかない仕方で失われており、家庭生活も職業生活も、昔夢見たのとは程遠い現実に流れています。しかしながら、「時」を司る創造主は、私たちの人生の中で失われた「時」を贖う方です。神の国とは、贖い主のその恵みを纏い、地上の人生でもその祝福を輝かせた人々の国です。思い通りにならずに苦しく、主以外の何かに慰めを求めたくなる局面で、主だけに感謝と賛美を捧げて生きる人は、聖霊に満たされて、その恵みの栄光を証しして生きるのです。
 

偶像崇拝とは何? 2024年6月2日 主日礼拝

エフェソ5:1-14
説教者:坂本兵部牧師
私たちを「光の子」として下さった恵みを薄れさせるのは、無意識裡の「偶像崇拝=貪り」です。神様ではない何かにしがみつき、そこから心の満たしを得ようとする時、私たちは「主が我が牧者なので不足はない」という告白を否定しています。全ての罪は偶像崇拝を同伴します。例えば「良き父親でありたい」という思い込みの強さも、不安から発している場合が多く、それは愛ではないので、子供は期待通りの反応をしません。すると不安が昂じ、益々その思い込みが強くなる、という悪循環に陥ります。およそ不安やもどかしさや怒りがこみあげる背後には、何らかの「偶像」が隠れています。それが脅かされる時、私たちは「光の子」としての真骨頂が問われるのです。
 

何があなたを神様の御心から逸らすか 2024年5月26日 主日礼拝

エフェソ4:25-32
説教者:坂本兵部牧師
「悪魔に隙を与えるな」と言われる理由は、敵サタンが私たちの人生の祝福を盗むための策略をもって激しく活動しているからです。「怒り」を抱えたまま長い間過ごすことで、私たちは「苦い根」という拠点をサタンに与えます。そして、思い通りにならない現実の中で他人に「躓き」を覚えては、自分の「苦い根」を炸裂させるのですが(その際、自分は傷ついた、というストーリーを周囲に語るのですが)、実はサタンの霊的罠に自ら陥り、敵の思惑の成就に自ら加担しているのです。どんなに辛い出来事も、私たちの人生を主の御心から押し流すことはできません。しかし、その出来事に対して「躓く」選択をする時だけ、私たちは後世に至る祝福を自ら台無しにするのです。
 

「新しい人」を着ましたか 2024年5月19日 聖霊降臨祭

エフェソ4:16-25
説教者:坂本兵部牧師
「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る」とは、私たちがイエス・キリストを信じた時に、実は既に起きた出来事です。そんな私たちが、信仰生活の中で行き詰まりを覚える時、「高い所から着せられる新しい人格を纏いなさい」という主の召しは、繰り返し私たちに臨みます。ペンテコステは歴史の中で一度きりの御業でしたが、聖霊に満たされよという命令は聖書で強調されているように、私たちが既に着せられた“栄光の衣”は、それを日ごとに輝かせる責任が私たちに任されています。私たちが問題の大きさに圧倒されて疲れたり、自分の足りなさを痛感したりする時こそ、主は私たちに“栄光の衣”を着せたことを後悔なさらず、その価値を寧ろ増し加えようとしておられます。
 

その苦痛、そのストレスは、呪いなのか 2024年5月12日 母の日礼拝

エフェソ4:11-16
説教者:坂本兵部牧師
私たちが人生の中で「教会」と接点を持ったということは、「傷んだ葦」のような悲惨で未熟な状態から、「成熟した人」に成長するように召された、ということです。「未熟さ」とは、神様との断絶の影響を色濃く受けていることで、症状としては①不平不満②責任転嫁③礼拝の感動が薄れて他のところに慰めを求めること、などが挙げられます。しかしそのような葛藤の中にいる私たちを、神様は御子の十字架の模範に倣うよう、召し続けておられます。特に、何か不当な苦しみを強いられる時こそ、実はその召しが強く臨んでいるのです。その召しに応えて、主と共にその苦痛を通過するなら、それは呪いではなく、私たちに向かう美しい御心が成るための祝福に変わるのです。
 

「内なる人」が強められるとは 2024年4月28日 主日礼拝

エフェソ3:14-21
説教者:坂本兵部牧師
「内なる人」とは、主イエスを信じた時に新しく生まれた“霊的人格”です。これが「強められる」とは、剛毅な気質で何かを成し遂げるという意味ではなく、どんな状況でも神様の愛から離れなくなる、という意味です。「内なる人」が弱いままだと、ストレスを受けるたびに自己憐憫に陥ったり、他人や自分を責めたりして、実を結べません。主はそんな私たちを、ご自身の愛に年々深く「根ざされる」ように導きます。とりわけ、事が思い通りに進まない状況で、十字架のもとに謙遜にひれ伏して礼拝を捧げ、その恵みに圧倒される過程を通して、「内なる人」は成長します。主がその人に備えておられる「願いや思いを遥かに超える」偉大な御心は、その上に実を結ぶのです。
 

我が人生最大の問題は 2024年4月14日 主日礼拝

エフェソ2:11-22
説教者:坂本兵部牧師
神の国と縁遠く生きていた私たちが「キリストの血によって近い者とされた」(13節)ことを、クリスチャンは信じています。しかし、私たちの内面に構築されていた「敵意という隔ての壁」(14節)は、いっぺんに全て消えさるのではありません。日々の諸問題を通して、その存在は露呈し、そのたびに私たちは、十字架の恵みを信仰で告白する“悔い改め”へと招かれているのです。けれども真の大問題は、私たちが内面の「隔ての壁」のゆえに、神様の素晴らしさをありのままに見ることができておらず、それゆえその招きに背を向けて、大事な時に神様と距離を置く選択をすること、その結果霊的に一致すべき人とも親密になれずに、「隔ての壁」を増長させていることです。
 

メタモルフォーゼ 2024年4月7日 創立15周年感謝礼拝

ローマ12:1-2
説教者:山口陽一牧師(東京基督教大学学長)

復活、その鮮明な希望 2024年3月31日 復活祭

ローマ4:25-5:5
説教者:坂本兵部牧師
「主イエスは私たちが義とされるために復活された」とは、使徒たちが一貫して証言した福音の根幹です。それは、私たちを日々苛む「罪と死の権勢」を主イエスが打ち砕き、天と地を繋げて下さった、ということです。この福音を味わい知った人は、世が与える恐れに打ち勝ち、神との平和を楽しむようになります。さらに、苦難の中でも主を喜び、置かれた状況で忍耐を働かせるようになります。そして、その上に与えられる練られた品性が、「主イエスを復活させた神は、私をも復活させ、愛する者たちと共に御前に立たせて下さる」という希望を、鮮明に見るのです。この希望が不鮮明であるがゆえに、倒れがちな私たちを、復活の主は栄光のゴールへと召して下さっています。
 
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