年別アーカイブ:2021年
人生最大の躓きの中に
2021年12月24日
早天礼拝
マタイ1:18-25
説教者:坂本兵部牧師

許嫁マリアから胎内の子のことを告白された時、ヨセフの心は激しく動揺し、恐れに襲われたに違いありません。しかしその痛みの只中に神様からの御言葉はくだり、彼は御心を受け止める決断に立ちました。私たちの人生にも大きな躓きがあったことでしょうが、その痛みの只中に受肉された御言葉のゆえに 「圧倒的な勝利者」として生きるのが、私たちに向かう御心なのです。
天国が近づいたからこそ、罪を告白して
2021年12月23日
早天礼拝
マタイ3:1-12
説教者:坂本兵部牧師

荒野に登場した洗礼者ヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた」と叫びました。私たちがライフメッセージとして同じ内容を発信できているなら、世に勝つ神の子として良い実を結ぶでしょう。人生の中でそうなっていない領域の根にある罪を、具体的に兄弟姉妹に告白する時、神様はその罪を赦し、天国の祝福を纏わせて下さいます。
受けた恵みを聖霊によって解釈し、共有する
2021年12月22日
早天礼拝
ルカ1:67-80
説教者:坂本兵部牧師

口がほどけたザカリヤは、聖霊に満たされて預言をしましたが、それは、この年齢で息子ヨハネが与えられたという出来事の意味を、聖書的に解釈し、それを共同体にシェアしたということでした。私たちもこの年末、与えられている恵みの出来事に関して、預言の賜物を発揮する時、隣人を励まし、慰め、次世代を建てあげることができます。
より深い賛美を、結論・目的として生きる
2021年12月21日
早天礼拝
ルカ1:57-66
説教者:坂本兵部牧師

高齢のザカリヤは口がきけない状態になっていましたが、懐妊した妻エリサベトと共に祈りの日々を送りながら、とりわけ、ナザレから突然訪問してきた乙女マリアとも三ヶ月共に過ごしながら、内面には既に主への賛美が溢れていました。問題が解決したからではなく、既に神様が成しておられる御業を、理解はできなくても称える、というのが賛美の本質です。この賛美の内を歩む時、私たちは御心の中に守られ導かれているのです。
私たちを顧みて下さる主への賛美を遺す
2021年12月20日
早天礼拝
ルカ1:46-56
説教者:坂本兵部牧師

“聖なる種”を宿した神の子が、御心の中を信仰で歩んでいく力を供給してくれるのは、聖霊に導かれる信仰者との交わりです。受胎告知を受けたマリアは、親戚であるエリサベトを通して受けた“顧み”のゆえに、偉大な賛美を決断として捧げることができ、それを初代教会の交わりの中で私たちに遺してくれました。
切り株から芽が生え出る
2021年12月19日
クリスマス礼拝
イザヤ11:1
説教者:坂本兵部牧師

私たちを祝福で満たしたいと願う神様の愛と、そこから私たちを断ち切り引き離す力に苦しめられている私たちとの間に、不思議な仕方で入って来られた方——それがご降誕の御子です。何かに打ちのめされて“切り株”状態になっている私たちに、その方は聖なる種として宿り、神の国の実を結ばせて下さいます。
恐れないで、驚くべき恵みを受けた者として
2021年12月18日
早天礼拝
ルカ1:26-38
説教者:坂本兵部牧師

乙女マリアがそうだったように、私たちも、神様が聖なる種を植えて下さった自分の身になさる御業に対して、葛藤や戸惑いを覚えがちです。しかし 「恐れることはない。あなたは神から恵みを受けたのだ」という御言葉を、私たちも謙遜に受け止めるなら、理解を超える神様からの召しに対して、マリアのように応答することができます。
神の国への慄きを心の歌とせよ
2021年12月17日
早天礼拝
マタイ11:7-19
説教者:坂本兵部牧師

人は自分の思い通りに動かない何かを見る時、たとえそれが神様からの尊い贈り物でも、 「ああ、もどかしい!」という呟きを、戯れ歌のように歌います。世に溢れているその歌を、私たちも、 誰かに浴びせかけられることがあるかも知れません。しかし、そこで同じ歌に巻き込まれるのではなく、むしろ神の国の到来に対する慄きを、自分の心の歌として歩むように、私たちは召されているのです。
メシヤと共に、躓きの渦を断て
2021年12月16日
早天礼拝
マタイ11:2-6
説教者:坂本兵部牧師

洗礼者ヨハネは、獄中で聞くイエス様のミニストリーの様子に対して躓きを覚え、非難めいた言葉を間接的に投げかけます。自分が期待していた通りに事が展開しない時に、人は躓き、その結果、神様や隣人との祝福された関係を失い、それは伝染病のように拡がります。しかしイエス様は、全く動揺なさらず、一人ひとりがその渦を自ら断ち切るためのよすがを与えて下さいます。
脱穀場を隅々まで清める方が来られる
2021年12月15日
早天礼拝
ルカ3:15-22
説教者:坂本兵部牧師
「脱穀場」と洗礼者ヨハネが言う時、それは私たちの内の“実”と“籾殻”を峻別する所を意味します。私たちの不純物を聖霊によって焼き清める方として、彼はメシヤを認識していましたが、そのメシヤが、御言葉の前に謙る罪人たちとひとつとなられるため、洗礼をお受けになりました。その恵みを信頼して、私たちも謙りの道を行く時、聖霊が美しく働かれます。